藤田修のこと


石渡 尚

物質化された闇



近藤幸夫

藤田修について                                 English

 藤田修の作品を最初にみたのは1993年だったと思う。案内状の作品が妙に気になって鎌倉の海の近くのギャラリーまで出かけていったのを憶えている。そこでみたのは、まるでピンホールカメラで覗いたかのように、深い闇に包まれた日常的光景であった。廃校のような教室や階段、ピアノなどのモティーフは記憶のなかにある懐かしい情景を思わせた。多視点のイメージを集積して対象を表す方法も、絶えず視線を動かして対象を把握している私たちの実際の視覚体験をなぞろうとした結果だろうと思った。もっとコンセプチュアルな作品を想像していたのだが、それよりも何か硬質なものを感じさせる不思議な作品だと思った。写真製版によるこの手の版画作品は、ともすればセンチメンタルで表層的なものになりがちだがどこが違うのだろうと考えた。そして、それは、おそらく深い闇を表す黒いインクのもつ物質的存在感からきているのだろうと思った。もちろん実際の闇は物質ではない。しかし、闇を描くためには黒い絵の具やインクを使わなければならない。イリュージョンを前提とした従来の表現では、これらの絵の具やインクは自ら存在を消し去りひたすら観る者に空間を感じせることに奉仕する。藤田の作品では、観者はそこに空間と同時に物質としてのインクの存在も認識する。観者の視線はちょうどふたつの極の間を往還するように、相容れないふたつの見え方の間をさ迷う。そのような一種の緊張感が作品に強靱さを与えているのだろうと考えた。写真をそのまま使うのではなく、写真のイメージをあえて版画というメディアに移しているのも、作品に物質的存在感を与えるためだったのだろう。しかし、それにしても藤田は何故このようなことを考えるに至ったのだろうか。それを知るためには、彼が美術大学へ入学する前の体験までさかのぼらなければならないようだ。


 藤田の物質性へのこだわりは、作家自身が語るところによれば、大学に入る前に西武美術館でみたジャスパー・ジョーンズの作品に端を発するという。 絵画的イリュージョンを作り出すテクニックの習得のみに終始する美大受験生にとってこの体験は衝撃的であったようだ。 絵画も物質でしかなく、それ以上でもそれ以下はありえないとする主張をもち、あえて内容を排除し即物的な絵画を制作したジャスパー・ジョーンズの作品に感銘を受けたのは藤田のその後を考えると象徴的でもある。藤田は多摩美術大学へ入学するが、そこでは1960年代初めにジャスパー・ジョーンズを最初に日本へ紹介した東野芳明、「もの派」の代表的な作家である李禹煥などが教鞭をとっていた。このような環境のなかで藤田が作品の物質性に対する意識を次第に強めていったことは容易に想像できる。多摩美術大学ではその当時、初年度からの版画専攻はなかったようで、藤田も絵画専攻に入ってそれから版画を学んでいる。最初、ポップアートに興味を持っていた藤田は、写真のイメージを取り込むためシルクスクリーンを使った作品も試しているが、シルクスクリーンは、彼を満足させるものではなかったようだ。版の物質的存在感が希薄なシルクスクリーンは、彼が求めていたものとは少し違っていた。次第に現代美術への興味を強めていった藤田は、次にソフトグランドに直接ジーンズやシャツなどを押しつけ銅版に転写する方法によって即物的で事物のなまなましさを表現する作品を制作している。しかし、彼が最終的にたどり着いたのは、銅版画独特の硬い質感で写真イメージを表すことであった。そのころすでにシルクスクリーンによる写真製版の技術はあったが、銅版画の写真製版はまだ開発されていなかった。藤田は試行錯誤を重ねた末、その技術を習得する。

 《Warehouse》 や《School》など最初の作品をみると背景は闇ではなく白く抜けた空となっている。しかし、そこには線条やスポットなど銅版画独特の表現がみられ、それが抜けていく空間を見ようとする観者の視線を物質としての版画の表面へとひきもどす。また、これらの作品では異なった角度から撮った写真を組み合わせ建物が表されているが、このように断片的なイメージで対象を再構築する方法は、キュビスム以来、作者の個人的視覚体験の表わす手段であった。写真を客観的なメディアとしてではなく、主観的な視点を表す道具として使おうとしていたことがわかる。それによって、これらが心のなかの記憶のなかの風景であるよう感じられる。

 藤田にとってとりわけ若江漢字との交友は重要かもしれない。おそらく、藤田は若江からコンセプチュアルアートやヨーゼフ・ボイスのはなしを聞いたことだろう。藤田の初期の作品には画面に文字の導入がみられるが、モノクロームの写真と文字の組み合わせはコンセプチュアルアートの作品によくみられるものである。特に、《Corner》の画面中央の十字の印は、ヨーゼフ・ボイスを思い起こさせる。筆者が最初にコンセプチュアルな作品を想像していたのもその辺に理由があるわけだが、藤田の意図は別の部分にあった。それは、コンセプチュアルアートとは別の現代美術の重要な局面を示しているよう思われる。藤田は、作品がプレス機から出てくるときはいつも興奮を覚えるという。さまざまな要素がからみあう銅版画の場合、制作段階で仕上りを完全に予測することは不可能であろう。そのように偶然性がおおきく絡むからこそ銅版画では職人的な技術が必要となる。藤田はそのような銅版画の職人的な部分に惹かれると語っているが、それは、インクや銅板といった物質と向ききあいそれと格闘する行為でもある。藤田は、インクについても質感や複雑なトーンをだすために神経を使うという。このように美術の表現を支える素材の物質的側面へ目をむけ、それと向き合うことは、20世紀初頭以来、現代美術へ至るまでの大きなテーマのひとつである。

 次第に藤田の画面には黒の占める割合が多くなっていく。それは、闇であると同時に物質としての黒インクの質感を見せようとする試みでもあった。特に彼にとってひとつの転機となったのは、1996年のフランス旅行であった。藤田は友人の案内でブルゴーニュの田舎をまわる。その時に撮った教会堂などのイメージが《Diary》シリーズに出てくわけだが、そこでは、最早ひとつの対象をキュビスム的に再構築するような従来の試みはみられない。記憶の断片のような様々なイメージが闇の中で立ち現れる。あるものは教会堂の内部であり、あるものは彫像の部分的拡大である。対象把握から離れ、より自由に心証的な世界が展開される。その一方で、《Rain》 《Sprig Rain》のように、引っ掻き傷のようなタッチがイメージを覆い尽くし版の物質性を強く感じさせる作品も制作される。イメージは紙やインクといった物質がなければ出現しないわけだが、私たちがイメージをみているとき紙やインクの存在を意識することはない。イメージが消えたときに

それらは、ものとしての主張を始める。それまで、藤田はイメージを認識しやすい写真を使い、それと銅版画の強い物質性と対峙させることによって独特の緊張感と強度を作品に与えようとしてきた。しかし、これ以降、彼は、イメージか、物質性か、あるいは、イメージが生まれる臨界点はどこなのかといった、より還元的な方向へとむかっていくよう思われる。画面からは文字も消える。1998年に制作される《Ground》シリーズでは、まさに再現的な要素は一切排除され素材の物質的特性のみを見せようとする。しかし、それでも私たちの目はそこに風景や光、闇といった何か具体的なイメージをみようとするのではないだろうか。このようにイメージ的なものを完全に排除することは難しい。その反対に、どのように細密な画像であろうとも絵の具やインク、支持体の紙といった表現媒体の物質的特性を完全に消し去ることもできないのではないだろうか。2004年から藤田が始めるフォトポリマーグラヴュールのシリーズは、まさにこのようなことを考えさせる作品である。フォトポリマーグラヴュールは、比較的簡単に写真製版をすることのできる技法だが、それと同時に非常に精細に写真を再現することもできる。藤田のフォトポリマーグラヴュール作品は、おそらく一見すると写真と何ら変わりないようにみえることだろう。藤田は、あえてこの技法を採用することによって、写真と版画の微妙な差異を見せようとしているよう思われる。

 このように藤田の作品は、近年、イメージを全く持たない作品と、極端にイメージを強調した作品に二極分化しているようにみえる。版画の他にも藤田はイメージを筆で消し去ったような油彩画も描いている。このような藤田をみていると、はたして彼を版画家という範疇で語ってよいのか迷うことがある。彼の金属である銅版への固執や素材との格闘に彫刻家に近いものを感じることもある。おそらく、このような藤田の制作活動は、すでに版画という特定のジャンルをはるかに越えて、造形表現の本源的な部分へ遡行しようとしているといえるだろう。


藤田修の銅版画を見ていると、完結した静寂な世界に魅了され、やがてどこか厳粛な気持にさせられるようなところがある。今回あらためてそのことを思ったのだが、それをことばにしようとしても、曖昧なものになってしまう。たぶん作品の背後にある精神的なものや、深く美しい黒がつくりだす独特の世界などが、それを解く示唆となりそうだ。

彼の作品と向かい合っていると、寡黙ということばが浮かぶ。作品に饒舌なそれと寡黙な作品があるとすれば、藤田修の作品は間違いなく寡黙なほうに属するだろう。いっておくがそれは色彩がモノクロームということとは関係ない。作家の人間や感情があからさまに作品に表れないのは、もちろん作家の意図によるものだが、藤田のこのうえなく抑制の効いた静謐な世界のなかに、ことばにできない何かを明確に感じとることができる。それは藤田の確かな技術と、技術を上回って存在する創造性によって生まれ出たものだ。

作家とは古い知り合いなのだが、ずっと作品の変遷を見届けてきたわけではない。見ていた時期もあり、遠ざかっていたときもある。今度、カタログ用の写真撮影に立ち会って、彼は長い時間を、確実に一歩一歩、歩んできたのだとあらためて思った。

  

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藤田修は1953年、戦後の復興期に横須賀に生まれた。60年代の高度経済成長時代に少年期を送ったことになる。60年代はベトナム戦争への懸念を別にすれば、かつてない繁栄の時代であった。昭和元禄の時代と呼ばれた大量消費社会が出現し、若者はアメリカの文化と風俗に染まった。66年にビートルズが来日して、日本武道館で公演を行うと、音楽の世界にかぎらず、あらゆる分野の人々がその影響を受けた。当時をビートルズの曲とともに思い起こす人は多いだろう。そんな時代に身を置いた藤田少年は、将来は音楽の道へ進むか、美術を取るか悩んだのだという。

70年代のはじめ、まだ藤田が美大を目指して浪人していたころ、たまたま当時の西武美術館で、ジャスパー・ジョーンズの《標的》を見た。イリュージョンではない標的そのものが、同時に絵画として成立していることのアイロニーやおもしろさを、直感的に理解し、その体験が強く印象に残り、現代美術に急速に接近することになったのだという。

60年代に、ニューヨークの都会生活の土壌から生まれたポップ・アートは、世界を席巻し、日本の若い作家たちにも大きな影響を与えた。しかし現代美術の状況と美術大学に入ることとはまったく別のことだった当時、この体験は藤田にとって天地の幕が切って落とされた瞬間であったかもしれない。


多摩美術大学絵画科油画専攻2年のとき、版画は手で描く絵画には無い、現代的で豊富な表現の可能性に恵まれていることに気づき、面白いと感じたという。版画家には作家であると同時に、職人的な気質が求められるが、藤田は、以外にも自分のなかに職人的なもののあることに気づいた。木版画やシルクスクリーンにも関心を持ったが、やれることがまだまだたくさんある銅版画がおもしろいと思ったという。アンディ・ウォーホルに代表されるポップ・アートの作家たちがこころみた、大衆の頭のなかに刷りこまれたイメージを使った作品にも惹かれた。ルネサンス以来の伝統的な西洋絵画の世界で引き継がれてきたイリュージョンや手作業を一度捨て去ってしまい、新しい可能性を模索しようとしたのだ。

大学を卒業するとき、大学院に進むか、その費用でプレス機を買って自分で制作するかを思案し、ひとり制作する道を選んだ。このころの作品についての筆者の記憶は確かではないが、銀座の日動サロンで、版画グランプリ展に出品された藤田の作品をみた憶えがある。手もとの資料を見ると1979年のことだ。ポップ・アートの影響がみられるなかにも、藤田らしい神経の行き届いた作品であったことを憶えている。


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藤田は80年代に入ってから、フォトエッチングという技法を制作の中心に据える。写真を使うということについて、特別に意識したことはないという。作家は「映像を使用することは、それ自体が目的ではなく、自己の投影である作品を、作り上げるための、一つの手段にほかならない。あらゆる選択肢が与えられている現代において、客観性をその特性の一つとして持っている映像を、自己表現の一つとして選択したのは、自分にとって、それほど特別なことではないと思っている。」*と語っている。

この頃、対象を複数の視点から撮った写真をつなぎ合わせて構成する、キュビスム的作品を制作しはじめる。作品を見たとき、筆者はデイヴィッド・ホックニーのフォトコラージュが頭に浮かんだが、写真の持つ意味は全く違う。ホックニーの場合は、日記的な記録写真であり、藤田の場合それ自体はあまり意味を持たない作品の材料である。

映像は作者の眼のなかで分解された後に注意深く構成される。そこには新たな秩序が与えられ、均衡とリズムが生まれる。86年ころの作品ではその対象は倉庫などの建物が中心となる。《Warehouse》(cat.1)《School》(cat.2)は視点を少しずつ移動させながら撮影した写真を重ね合わせて、建物のかたちを追い、なぞっている。そこではまだかたちが、藤田の関心の中心であることがわかる。


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藤田は、たまたま訪れた東京都美術館で開催されていた毎日新聞社主催の現代日本美術展の会場を見て、自分の作品にあっていると感じ、同展や日本国際美術展などに出品するようになる。

1988年には《Corner》(cat.3)と《Corridor》(cat.4)で神奈川県美術展の特選を受賞した。受賞の事実よりも、その時の審査員の好意的な評に励まされ、自分の進むべき道はこれでよいのだとの確信を得たという。

この頃興味の中心は、レンガや、下見板や、コンクリートの壁、木の床といった物質感をともなうものから離れ、徐々に光と影に移っていくように思われる。それと呼応するようにモティーフは室内が多くなり、かたちは黒のなかにとけこみ、窓から射しこむ光や、その光がつくりだす影が作品の主役となる。彼にとってかたちはそれほど重要な要素ではなくなり、光や影がつくりだす世界こそが大切なものになる。写真は単なる素材で、それ自体で主張するものではないが、そこに藤田の手が加えられることによって変化がおこり、版画としてのリアリティーが立ちあらわれてくるのだ。

 版には藤田の手による線やドロッピングによって、有機的なかたちが与えられる。この作家自身の痕跡ともいえる人間的な手わざの介入がどのように、またどの程度おこなわれるかによって、作品の性格が変わってくる。

《Meeting》(cat.9)は、視点を少しずつずらした9の枚の写真を版画にしたものだが、藤田の関心の中心がほぼ光の扱いにあることがわかる。テーブルや、椅子は何より光の効果の小道具として存在しているかのようだ。ここでは写真に写っていたであろうさまざまな要素を、意図的に排除していくことによって、逆に彼の求めるイメージを定着させることに成功している。藤田のこのような傾向がさらに顕著になったものが《No Remembrance》(cat.16)や《Memory》(cat..19)であろう。作品から一切の曖昧な私性を追放したあと、そこには残るのは光と影だけだ。その場合でも、銅版画だけが持つ硬質なテクスチャーや、藤田の手による有機的な線が潜んでいることを忘れてはならない。

藤田の作品にはよく単語や短い文章が登場する。文字は作品に心理的深さを与えると同時に、見る人の視線を誘導する役割を果たしている。「文字はグラフィック的な感覚で入れたのが最初、視点を動かしていくガイドに使った。その後次第に意味を持つようになった。大概は聖書からの引用で意味はあるが、作品の説明ではない。」と作者はいう。


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藤田の制作に対する姿勢は、96年から97年にかけて大きく変化する。《Rain》(cat.29)はその過渡期の作品である。フランスのブルゴーニュ地方を車で旅したときに、散文的に撮ったというスナップ写真を20枚並べ、その上を雨を象徴した手描きの線で覆いつくしている。「エッチングの線によるテクスチャー、つまり、版のリアリティーを写真という虚像の上にのせることによって、モノとしての存在感を提示しようとした」と作家は語っている。

藤田はこの頃、作品の変化について「私小説的方向に向かった。」ということばで説明している。作家の実際の行動や、個人的な体験を語るさまざまな部分をあつめ、それらの部分からひとつの世界を構成する。それはダイアリーのシリーズに、より明確に認められる。「今まで自分の中で希薄だった文学的要素を加えた作品」と作家自身語っているようにかれの眼がとらえたもの、気持ちがとらえたものをコラージュのように断片的に組み合わせ、張り合わせてつくられている。そこには藤田自身がうずくまるように存在しているのに気づかされる。作品に使われている写真は、紀行文的なものとなり、ひとつの場所で撮ったものではなくなっている。

1998年に発表された《Ground》シリーズ(cat.36-47)は藤田修の仕事をたどるうえで興味深い。藤田は映像を使わずもっと根源的なものだけで表現できないかと考え、ドローイング的なもの、自分的なものを実験的に版画にした。原風景のさらなる原風景、精神的なものを表現したかったのだという。「最も根源的なかたち。ミニマルのようにシンプルでいて、それでいて見る者がそこに落ちていくような深く精神的な黒。」を求めることを試みた。とらえがたい奥深さを生むマーク・ロスコの色彩の広がりとどこか通じあうものがある。

未来へ向う確かなものをつかみとるには、一度何もないところまで立ちかえり、そこからもう一度歩むことこそ必要なのだろう。

その後、制作された作品が《Stay》(cat.48)である。「映像の無記名性のようなものに発展した」と作者自身語るように、今までに身についた自己の習慣を打ち消すこと、自分を離れることによって、あらたな表現を目ざした。


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藤田の最近の仕事に、フォトポリマーグラヴュールという技法で制作されたシリーズがある(cat.53-67)。フォトポリマーグラヴュ−ルは樹脂を使った凹版画で、性格的には写真と銅版画の中間に位置づけられるといってよい。しかし話はそう簡単ではなく、藤田によると銅版画と他の技法が異なるように、両者は全くの別物なのだという。フォトポリマーグラヴュールは、原則的に原稿を版に起こすという一度きりの作業で、それ以上のことはできない。したがってイメージが確かでないと作品にならない。銅版の場合、硬質な版に立ち向かっていると、そこに客観性のようなもの、あるいは内証的な姿勢が生じるが、もともと樹脂の一種できめ細かく扱いも楽となると、ついつい情緒的な部分が作品に不用意に伝わりすぎてしまうと作家はいう。これは興味深いことばで、それは版種が作品の方向を変える可能性のあることを示唆している。


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藤田修が表現しようとしているのは光と影だといったが、もちろんそれだけではない。光と影は常に精神とのかかわりにおいて表現されていて、それを支えているのは、技術や思想を超えたそれ以上のものといったら、説明になっていないだろうか。その答えはともかくとして、藤田がキリスト者であることを、最後にしるしておきたい。彼がすぐれて内省的な精神を持った版画家であることはまちがいない。そのうえで、藤田の作品の背後には、明らかに信仰からくる深い精神性が横たわっている。彼は自らの作品が魂にうったえかけるものでありたいと願い、そのことが見る者の心の奥底に働きかけ、厳粛な気持ちにさせられるのかもしれない。


(いしわた なお 美術館開設準備室学芸員)



*    版画と写真の間『版画藝術』?81 阿部出版 1993年

その他の文中の作家のことばは、筆者の聞き書きおよび作家の書き記したことばによるものです。